たたら製鉄ルーツ探索記 【技術顧問:角井洵】


技術顧問:角井洵

第1回 第2回 第3回第4回第5回第6回第7回第8回第9回第10回
第11回第12回第13回第14回第15回第16回


たたら製鉄ルーツ探索記 第16回(たたら製鉄に挑戦しよう)     平成21年10月31日

 10月31日(土)快晴。8時30分に家を出て広島県立三次風土記の丘(三次市小田幸町122)に向かう。途中で昼食のむすび飯を購入し、広島県立歴史民俗資料館が開催する古代のたたら製鉄の体験教室に参加した。
 
1 風土記の丘体験教室
 到着すると既に会場の設営や装置の準備が進められ、関係者が忙しく立ち回っていた。10時になると本日指導をしていただく刀匠の久保善博さんと補助役のエビスさんが紹介され作業に入った。参加者は子供や父兄を合わせて約50名である。炭が詰められている炉には既に火が付けられ、炉を暖める作業が進行していた。

最初に砂鉄の選鉱と炭割りを実習させていただいた。砂鉄は近くの川で採取したもので砂に少し黒い物が混じっているように見える。これを磁石で砂と砂鉄に選別するのだが、何回か選別を繰り返さないと良い砂鉄原料にならないことが分かった。だいたい選別を3〜5回繰り返すと綺麗な黒みかかった砂鉄の色になり、たたら製鉄の原料となる。昔は磁石など無いので選別は鉄穴流しという方法で行われていた。これは川の流れを利用して砂鉄と砂の比重差を利用する方法(重力選鉱)で、今回の実習で得られたような良い純度にはならなかったようである。指導者の久保さんのお話によると、磁気選鉱した原料と重力選鉱した原料とでは砂鉄の成分が異なり、重力選鉱ではチタン成分が残るので後の製鉄作業も難しいとのことであった。
 次に炭割りを実習した。焼いたままの炭は大きさが(5〜10)φX30cmあり、このままでは大きすぎるので丁度良い寸法に割る必要がある。丁度良い寸法とは炉の大きさなどにより異なるが、鞴(ふいご)から送られる空気と反応しやすく、燃焼して縮小したときに旨い具合に降下する寸法が良い。今回の実習では3cm程の塊になるように斧で炭を切り(割り)形を整えた。慣れない作業なので時間がかかる。炭の質はたたら製鉄では重要な要素であり、昔から多くの工夫がされていたようである。因みに今はやりの備長炭は緻密すぎて反応性が弱く、必要な温度まで上がらないようである。

 参加した子供達は砂鉄を何度も選鉱すると綺麗な色に変わるので興味を持ったようだ。また、炭割りでは斧を使うので危ないかなとも思ったが上手に割っていた。

【近くの川で採取した砂鉄】 【磁気選鉱したもの】
 

 

2 たたら製鉄の装置 
 敷地内の芝生の上に装置が仮設されているが、その構成は製鉄を行う炉と炉に風を送る送風機(ブロアー)になる。炉の寸法は以下の通りである。炉の上には雨を配慮して
   外経:50cm程度
   内径:30cm程度
   高さ:160cm程度 
小さな屋根がかけられている。炉は鉄パイプの中側に約10cm程の厚さの耐火物(耐火粘土)を貼り付けた構造で、上下方向に4分割できるようになっている。これは操業の最後に炉底に貯まるッ(けら)やノロを取り出すための工夫である。炉体の下部は4本の羽口があり、これらはブロアに接続していて、操業中常に風を送れるようになっている。また、4本の羽口の延長部分はガラス張りの覗き穴になり、内部の温度が見えるように工夫されている。炉の最下部に湯溜めがあり、その直上に排滓口が2カ所設けられている。

 今回の実習では風を送るのに電気で動くブロアという便利な装置があったので苦労せずに送風できたが、昔の炉では人力で風を送っていたので長時間の重労働が欠かせなかった。また、炉も古い遺跡では地中に穴を掘って湿気対策や温度を上げる対策をしたり、鉄を取り出すために斜面を利用した物が多く、準備・操業・取り出しなどあらゆる面で大変であったと想像できる。

【装置の模型図】
【装置の外観】

 

3 操業工程
 まず炉体を予熱する必要があり、炉内に炭を充填しブロアを運転し、着火する。今回の実習では開催時間の10時前からこの作業は進められていた。そこから後の操業工程を時系列的に以下に示す。                                     
 1)10時30分:砂鉄と炭の投入開始(両者とも1回に約1kg程度)
 2)この作業を5〜10分間隔で連続して実施
     炭が燃焼し、砂鉄と反応すると体積が減少し5〜10分で約10cm程下がるのでこの空間に逐次砂鉄と炭を充填する。
 3)11時40分:出滓(ノロ出し)
     出滓口の耐火物を除去するとノロが流出する。ノロが排出されれば粘度で出滓口をふさぎ、再び操業に戻る。
 4)12時10分:反対側出滓口から出滓
 5)13時30分:最後の砂鉄と炭を投入
 6)14時45分:出滓
     出滓口から内部が見え鉄と炭とが反応してマグマのように湧いている様子を見ることが出来る。耳を傾けるとブツブツという「鉄の湧く音」が出滓口から聞こえ感激の一瞬であった。
 7)15時00分:火止めして炉体のバラシ開始
     4分割の炉体を上から逐次ばらして取り除く。この時燃えかすの炭なども逐次取り除く。最下部の炉体にたまっているノロ出しをしケラを出しやすくする。

8)15時30分:ッを取り出し水中冷却

【出滓の様子】 【得られたッ(ケラ)約9kg程度】

 

4 結果
約30kgの砂鉄及び炭から約9kgのッを製造できた。一般的な収量(砂鉄使用量の1/4程度と言われている)からすると、今回の収量は良く(多く)上出来であったようである。このッは、日本刀にすると2本程度の原料になるそうだ。

6 感想
 これまでたたら製鉄の遺跡を探索してきたが、今回初めてたたら製鉄を体験し改めて製鉄の魅力を感じることが出来た。砂鉄のままでは利用も限られてしまうが、ッとなると、刀を始め斧などの道具や釘などの建築資材として利用できるようになる。このため、昔の人々は苦労をしてでも製鉄を始め携わってきた。
 今回古代のたたら製鉄の体験学習により、たたら製鉄のプロセスを踏襲できたが、使った道具は現代の物であり技術の進歩の恩恵を感じた。例えば風を送る鞴は古代たたらでは3日3晩連続操業などが普通で人力による過酷な作業であり、チームワークがなければ殆ど実現できなかったのではないか。また、炉体も今回は縦型のシャフト炉形式を取れたが、これも簡単に手に入る鉄パイプのような物があればこそで、このような物がないとどうしても地中に穴を掘るような考えになってしまい、装置の製作から操業まで予想以上の困難を伴う。砂鉄の選鉱にしても磁石を利用すれば収量を良くする効果は絶大である。今回の実習で昔のやり方を再現して、昔の人々の苦労を再認識することができとても意味があった。鋳物の分野でも活用してみたい気がする。
 また子供達も参加し一緒に作業を体験できたことに非常に喜びを感じる。子供達は磁気選鉱や炭割り、砂鉄の添加などに興味を持ち、炉から上がる火炎が非常に温度が高いことや砂鉄がッになる変化をみたりして、たたら製鉄を体感できたと思われる。昔のことを子供に語りつなぐことが歴史であり、地域の特性を語りつなぐ必要もあるだろう。
 最後になるが、ケラの表面にはきらきら輝く銀色
の結晶が認められた。これは白銑と呼ばれる物なのか

どうか、今後機会があれば解明してみたい。
▲トップへ戻る
たたら製鉄ルーツ探索記 第15回(金屋子神社と中国山地)     平成21年8月19日

 製鉄、鋳造、鍛造など業者が祀っている金屋子(かなやご)神社の発祥の地が島根県広瀬町にあるので、この神社への参拝を兼ねて途上のたたら製鉄関連場所を探訪した。

1 県民の森
 中国自動車道庄原インターから入って国道183号を北上し国道314号沿いに三井野原スキー場方向に進むと県民の森に到着する(庄原インターから38km程度)。県民の森は比婆山や立烏帽子山(1298m)、毛無山、竜王山など近くの山々の登山口で宿泊施設や日帰り温泉、レストランがあり、夏はキャンプ場として、冬には絶好のスキー場として賑う県立自然公園である。

 昭和43年に県民の森の開発に着手し、その時発掘されたのが「六の原製鉄遺跡」である。昭和46年には県の史跡指定を受けている。1700年代から1800年代にかけて砂鉄を原料とし鉄穴流しと左右1対の小舟を装備した炉によるたたら製鉄が操業されていた。炉は2対発掘されているが、その意味合いや時代背景などは不明である。現在残っているのは金屋子神社と鉄穴流し跡だけである。

15-1 15-2
【県民の森】 【六の原製鉄史跡】
15-3
15-4 15-5
【鉄穴流し跡】 【金屋子神社】

 

2 おろちループ(鉄の彫刻美術館)

 県民の森から国道314号線を横田方面に進むと八岐大蛇(やまたのおろち)をもじった「おろちループ」に出る。この峠にある道の駅に接して「鉄の彫刻美術館」が最近オープンした。ここにはニューヨークで活躍していた下田治氏の作品が集められ鉄の故郷とも言えるこの地に相応しい彫刻が配列されている。いずれも鉄のぬくもりや鉄の感触が感じられる作品で鉄の色々な姿を楽しく鑑賞できる。

15-6 15-7
【鉄の彫刻美術館】 【鳥居という題の彫刻】

3 絲原家記念館

 国道314号線を出雲の方向に進む。横田の町を過ぎてしばらく行き国の名勝・天然記念物に指定されている「鬼の舌震」方面への分かれ道に入ると5km程で絲原家記念館に着く。ここは松江藩の時代に鉄師頭取として鉄造りで財をなした絲原家の歴史、たたら製鉄で使用した道具、当時の生活道具など多彩な展示物がある。資料よると、この地で営まれた高殿たたらは1788年〜1923年である。第1展示室には島根県立松江工業高校機械課の製作による可動式永代たたら復元模型(1/3)があり、鞴(ふいご)の動きなど興味をそそる。他にもたたら製鉄の原料や1次製品である銑(ずく)、ッ(けら)玉鋼、2次製品である割鉄、包丁鉄(1.5x7x50cm)などが現物展示されていて当時の状況を理解するのに役立つ。最終製品である日本刀の展示や美術工芸コーナーや茶道具コーナーなどもあり、文化的な価値も高い記念館である。

資料の中に当時の鉄生産量の
データがあり興味深かった
ので表1に纏めてみた。表1
より明治12年の鉄生産量は
全国で1万3千トン、現在の
一万分の一レベルでこの内の
86%は中国地区で生産して
いた。その半分程度は島根県
で生産されていことなど、
今では想像できない数字が並
んでいる。 当時の島根県は製
鉄が盛んで絲原家も全盛時代
であったと思われる。
表1 明治初期鉄生産量事例(単位トン)    
項目 明治12年 明治37年

全国生産量

13,021 38,143

中国地区生産量

11,203 7,715

島根県生産量

6,621 3,481

広島県生産量(官営)

1,532 603

広島県生産量(民間)

1,090  

岡山県

1,090 64

岩手県

945 26,649

鳥取県

3,509

中国地区比率

86% 20%

特に松江藩は製鉄の産業振興に熱心であったと思われ、松江藩鉄師頭取御三家として絲原(イトハラ)家、櫻井(サクライ)家、田部(タナベ)家が挙げられ、いずれも繁栄を極め莫大な財をなし、後世に語り継がれている。ここ絲原家の絲原記念館、櫻井家の櫻井家屋敷、可部屋集成館、田部家の菅谷たたら(菅谷高殿、田部家土蔵群)など観光資源としても活用されている。この他にもたたら製鉄に関連した家系として山根家、石原家、卜蔵(ボクラ)家、杠(クズリハ)家などの名前が古文書に認められ、いずれも何らかの形で現在に繋がっている。島根県が製鉄大国を誇っていた状況が解る。

 表1に戻って25年後の製鉄生産量を見ると全国の生産量は明治12年の3倍程度に増加しているが中国地区の生産量は減少し島根県の生産量は明治12年の半分になっている。この時期製鉄プロセスの革新時期で近代高炉製鉄法を取り入れた岩手県の生産量がこの間30倍程度に増加し、たたら製鉄をベースとした中国山地の生産量を凌駕して、製鉄技術の新しい幕開けの時期であったことを示している。このような技術革新に直面して絲原家の経営は難しかったものと想像できる。

 与謝野夫妻の記念碑が残されている絲原記念館には明治時代に与謝野鉄幹、晶子夫妻や近衛文麿公など著名な人が訪れた。
15-8 15-9 15-10
【絲原記念館入り口】 【金屋子神社】 【与謝野夫妻の歌碑】

 

4 金屋子神社本社、金屋子神話民俗館  
 絲原記念館を後に国道314号線まで戻りしばらく行くと国道432号線と交差する。国道432号線を安来方面に車を走らせると約20km程で安来市広瀬町にある金屋子神社に着く。
 この金屋子神社は全国1200の金屋子神社の総本山である。総檜造りの立派な本殿があり、門前にはたたら製鉄所から寄進されたッが並び、たたらの神様というイメージを助長する。
 日照りで困っていた播磨の国に恵みの雨を降らせた神様が金屋子の神様である。その後白鷺に乗り出雲の国(広瀬町)にある桂の木に舞い降りて鉄の製法を伝えたと言われている。このため、金屋子神社には桂の木が植えられている。降り立った神様は自ら村下(むらげ、たたら製鉄のリーダー)となり他の多くの神と協力して鉄造りを始めた。たたらの高殿の建設を指揮したのは75人の子供の神々、75種類の道具を造り土地を整備し木を切って鞴を作った。火災から高殿を守る神様、炉に風を送る神様、方位を守る神様など多くの神様が協力した。たたら製鉄では木炭造り、製鉄原料造り、炉造り、鞴に風を送る役目、温度を監視する役目など多くの人の協力がないとうまく出来ない仕事であり、金屋子の神様は人々の共鳴を得て全国に広がったものと思われる。このことは、現在のものづくりでも共通しているので現在でも信仰を集めているのだろう。
 ちなみに此処の大祭日は4月21日(春大祭)と11月3日(秋大祭)で、ふいご祭りとして古式ゆかしく火入れの儀が再現されたこともあるようだ。

 神社の近くに金屋子神話民俗館がある。冬の間は雪が深いので閉館しているとの話であった。ここには全国の金屋子神社の分布とか、村人達との関わり、どのような祭礼(鞴祭りなど)があったのかなど、たたら製鉄の道具などを交えて説明している。鍜冶神など神様図もあって楽しめる。

15-11 15-12 15-13
【金屋子神社本殿】 【寄進されたッ】 【金屋子神話民俗館】

 

5 纏め

 友鉄工業鰍珞Jっている金屋子の神様の言い伝えでは、神様自らリーダーとなりたたら製鉄造りを実践したことや、沢山の神様の協力により良い鉄ができたことなど、多くの共感できる点が受け入れられて全国に広がった。たたら製鉄も当初はなかなかうまくいかずそれこそ神にもすがるお思いで、操業していたのだろう。関係する多くの人々の協力により成功することは、ものづくりに共通することなので、今後も信仰され続けることだろう。
▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記 第14回(最新技術による鉄斧復元)    平成21年4月28日

 弥生時代の遺跡から出土した鋳造鉄斧は、日本で使われた鋳鉄鋳物のルーツと言える物であり、この鉄斧を復元することは当時の状況を理解する上で有効なことと考えた。この考えを実現するために、友鉄工業の設備はもとより、多くの方達に協力していただくことになった。

1 鋳造法の検討

 一般の砂型鋳造では、製品と同形状の木型を製作しこれに合わせて砂型を形成し造型して、木型を抜き取り出来たキャビティに溶湯を充満して固化させて製品を得る。しかし、この方法は木型を製作するコストが高いので、同一寸法の製品を沢山造る時には良いが一個、二個の製品を製作する時には割高となる。このような時のために発明されたのがフルモールド鋳造法(説明図を示す、米国で発明されドイツで発展した)である。この方法は、食品トレイなどに使われる発泡スチロールを製品と同形状に加工して模型とし、そのまま持効硬化性砂の中に埋め込んで鋳型とする。この模型部に溶湯を供給し溶湯の熱で模型をガス化し、溶湯を充満させて固化して製品とする方法である。この方法により一品物(量産品でない)の鋳物の製造には次のようなメリットが生まれる。

 1)模型費が木型に比べ安くなる

 2)模型の製作期間を短くできる

 3)鋳型の構造が木型に比べ簡単になり造型コストが下がる

 4)造型期間が短くできる

 5)木型の抜き取りなどの必要が無く寸法精度を良くできる

 6)製品に対してニアネットシェイプであり、鋳造後の機械加工工数を低減できる。

 友鉄工業ではこのフルモールド鋳造法を25年以上前から実施している国内有数のメーカーであり、この技術を元にプレス金型素材の製作などで自動車業界の発展に貢献してきた。今回の鋳造鉄斧の復元は古代人も驚くフルモールド法ですることにした。また、材質は、友鉄工業で開発しプレス金型で鉄板を切ることが出来る最先端の硬い材質(TOS800)を使用することとした。この材質は球状黒鉛鋳鉄と呼ばれ、第2次大戦後イギリスで発明されアメリカで発展した近代を代表する材料である。この材料を表面硬化(フレームハード)して刃の硬さを高めるので、切れ味は弥生時代よりかなり優れることになる。

2 鋳造鉄斧の製造

 製造工程手順とその内容、説明などを表1に示す。友鉄工業では日常、製造するプレス金型などは1〜5トン程度の重量が多い大型の工場であるが、今回の鋳造鉄斧は1kg以下の小物であり設備としては相応しくない。しかし製造工程は大物でも小物でもほぼ一緒である。今回の復元では現場の多くの人にお世話になったが、特に安佐工場課長の高木さんと中川さんに相談し主任の岩田さんにフォローしていただいた。また、焼き入れでは班長補の土井さんに担当していただいた。

表1 製造工程

工程

作業

内容、設備など

ワークの状況

鉄斧のCAD設計

鉄斧の寸法測定

データ入力

設計

製品の形状寸法データをソリッドワークスなどソフトを使用し、ワークステーションにて設計

模型製作

NCデータ入力模型加工

模型組立て

検査

発泡スチロール樹脂を加工

NCマシン

塗型・

造型

模型に耐熱粒子塗布・乾燥

模型・湯道設置

時効性砂充填

模型に耐熱粒子塗布・乾燥

模型の周囲に持硬性砂を充填して砂で固める

熔解・

取鍋

原材料配合

昇温・溶解

成分調整・出湯

合金量調整

接種球状化処理

温度調整

原材料を配合して溶解し、目標成分の湯を造る

カントバック分析装置により成分を合わせ高性能化する

黒鉛形状制御も行う

5トン溶解炉

成分表(%)
Si Mn Ni Cr Mo
3.8 2.0 0.3 0.4 0.2 0.3

成績表

引張強さ

伸び 硬さ
810N/mm 25%  269HBN

鋳込み

注湯

凝固

冷却

かたち創造

解枠・仕上げ

鋳型バラシ

砂・湯道除・スケール除去

鋳型を壊して

製品を取り出す

ショットブラスト

試験検査

欠陥・寸法検査

引張試験

硬さ試験

顕微鏡検査

製品の欠陥を検査

製品の性能(引張り強さ、伸び硬さ、球状化率)を測定

顕微鏡組織

写真

焼入れ・仕上研磨

ガスバーナーにて昇温・急冷

研磨

刃部硬さを持たせる

刃付け

 

製品検査

 

硬さ測定

ロックウエル硬さ計(携帯)

刃部硬さ:HRC58

 以上の工程により、今回は2個の鉄斧を製造しので写真を示す。先端の3mm程度の肉厚の部分も正確にでき、型あわせによるバリなどもない出来映えとなった。この刃部分はフレームハードして硬さをHRC58程度まで高めた。

3 斧の柄付け

 近くの山から拾ってきた木の枝を利用して柄付けを行った。鉄斧の窪みに合わせて木の枝が入るようにするのが大変であった。昔は道具なども充分でなく、このようなところも苦労したことだろう。また、柄と鉄斧を嵌め合わせるだけでは固定しないので、今回は接着剤を利用して固定した。この点も昔はどのように固定したのか興味を覚える。今回の柄付けでは、鉄斧と柄の角度を平行方向と直角方向と異なる方向で固定した。使い勝手が異なるのではと考え今後使う中で、解明出来ればと思う。

4 まとめ

 現代の技術を使い弥生時代の鋳造鉄斧を復元した。製造法や材質など弥生時代とはかけ離ているが、復元を通して当時の苦労を多少なりとも味わうことが出来た。また、日本国内では石器が主流の時代に鉄器を求めて中国大陸や朝鮮半島と接触し、当時の最先端の鋳造鉄斧を手に入れた時の感激は大きかったのではないだろうか。

【製造した鉄斧の状況】
【鉄斧の刃の部分】 【2本の鉄斧に柄付けをした状態】

▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記 第13回 鋳造鉄斧のCAD設計  平成21年4月7日
 たたら製鉄のルーツ探索を通じて弥生時代に使われた鋳造鉄斧との出会いは、鋳造業に従事する者にとって大きな感激であった。当時、鋳造鉄斧は国内で生産する技術が無く、中国大陸或いは朝鮮半島から渡来したものであるが、古くから普及していた青銅鋳物と異なり、鋳鉄鋳物としては日本最古級で資料的価値も大きい。また、友鉄工業(株)の工場用地に近い京野遺跡(北広島町)や友鉄工業に近い西願寺遺跡群(広島市安佐北区)から出土したことに親近感を覚え、何とか復元してみたいと思い立った。

1 復元の検討

 復元するのであれば当時の形が保たれ見栄えも美しい西願寺遺跡群から出土した鋳造鉄斧にしたいと思った。しかし、一口に復元と言っても、なにせ1700年以上も前の物であり分からないことが多く簡単ではないし調べることも沢山ある。復元を目指すには以下のような問題点に思い当たる。

 1)西願寺遺跡群から発掘した鋳造鉄斧はいつどこで造られたのか
   専門書を見ると袋部にある2条の模様が手掛かりになるらしい。
   いずれにしても中国大陸か、朝鮮半島かであるが国内とは違って簡単には調査できない。
   従って製造法は簡単には解明できないと考えた。

 2)鋳鉄の材質や硬さ
   対象とする鉄斧(広島県立歴史民俗資料館所蔵)は錆びだらけであり、
   これを破壊して調査するわけにもいかないので構成元素などは特定できない。
   村上恭通(著)「倭人と鉄の考古学(青木書店発行)」を見ると、弥生時代中期後半
   (西願寺遺跡群より200年位前)の福岡県の比恵遺跡から出土した鋳造鉄斧を調べた
   報告があるので、この内容が参考になりそうである。
   ・袋部端部に2条の凸帯を有するところは西願寺遺跡群から出土した鉄斧と似ている。
    時代は中国の戦国時代以降の物と考えられているので、西願寺の出土品も同時代の物かも
    知れない。
   ・鉄斧を切断調査し、断面組織から本体は鋳鉄(白鋳鉄?)であり、表面に脱炭層を認めて
    いる。従って、材質も現在通常使われている鋳鉄成分と異なっており、また現在一般的で
    ない脱炭熱処理も施されているので、簡単には復元できないと考える。
   ・これは一例であり他にも調査例があるかも知れない。更に調査する必要がある。

 以上のように、現時点では、製造方法や材質など分からないことが多いので、これにこだわっていては復元の道は遠くなる。今できる範囲で復元を考えると、姿・形なら復元出来るのではないか。材質は違っても、作り方は違っても、現在の鋳鉄で姿・形を復元すれば、柄を付けたりして使い勝手なども体験できる。よって相応の材質を選定し、今できる方法で復元することとした。

2 鋳造鉄斧の寸法測定とデータ作成

 形を復元するために、一番大事なことは詳細部分まで寸法データを揃えることである。広島県立歴史民俗資料館を訪ね、展示中の西願寺遺跡群から出土した鋳造鉄斧の寸法測定をお願いし快く許可していただいたが、資料的価値が高いので慎重に取り扱った。

 寸法測定にはノギスを持参し、外寸、内寸、深さなどを測定したが、何せ触ったら錆が落ちて現状維持に問題を生じるので、用心深く測定した。外寸に関しては、袋部から刃先部にかけて約11cmの間隔を10ミリピッチで幅、厚さを測定した。袋部内部の形状測定が難しく、袋部の深さを測定する程度しか出来なかったので、袋部の内部形状は先の参考文献の断面写真などを参考にテーパー(勾配)の付いた形状とした。また、この斧の特徴である袋部の2条の凸帯は殆ど消失しており、かすかに認められる程度であったが、先の参考文献などを参考にして、少しオーバー気味に明瞭な帯の寸法データを作成した。これら測定データを簡単なポンチ絵にまとめて設計用生データとした。

3 鋳造鉄斧の設計図作成

 測定した寸法生データを元に、友鉄工業模型製造部の中井さんと岸さんに相談して、鉄斧の設計図を作成して貰った。設計はソリッドワークス(SolidWorks)と呼ばれる3次元CAD・CAMソフトを使用して行った。このソフトで設計すると3次元の立体画像が得られ、この画像を各方向視野から切断した断面図も表現可能である。設計した画像を何例か示す。断面図の例も示すが、色などは希望に応じて替えられるのでイメージを見るのにも適している。このソフトは金型のデザイン、構想設計、詳細設計に使われる高度なものである。お客様が車の部品の設計に使い、そのままデータを送ってもらえば、鋳物にするための余肉や押し湯、加工代などを設計でき、そのまま、模型の加工(CAM)にも使える優れものである。現在お客様からデータをメールで送っていただき、模型加工までして模型の状態を画像送信し、検査して貰えば、遠隔地のお客様にも不便を与えないで生産を進めることができる、IT技術の最先端ものである。

 設計した鋳造鉄斧の画像を見ると、まさに1700年の時を超えて鋳造鉄斧が蘇ったような錯覚を覚える。錆びだらけの鉄斧が銀色に輝き、生気を取り戻したようである。袋部の2条の凸帯が少し派手に見えるが、錆る前は明瞭な帯だったと想像して、このままで鋳造するための模型の製作に移ることとした。

4 まとめ

 現在やっている仕事の中で出来る方法を選び、西願寺遺跡群から出土した鋳造鉄斧の復元を試みた。その第一歩として鋳造鉄斧の寸法を詳細に測定し、それを元に最先端のCAD技術を駆使して設計まで進めることが出来た。CAD技術により見事な画像が表現でき、あたかも鋳造鉄斧が復元できたような錯覚に至るほど、今のCAD技術が進んでいることも体験できた。

西願寺遺跡群から出土した鋳造鉄斧
[広島県立歴史民俗資料館所蔵]

ソリッドワークスを使用するワークステーション

設計した鋳造鉄斧の正面図(色違い)

設計した鋳造鉄斧の立体図
▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記 第12回(鋳造鉄斧)      平成21年2月24日

 北広島町の友鉄工業(株)工場用地のすぐ近くにある京野遺跡(第11回にて探索)から「鋳造鉄斧」(チュウゾウテップ)が出土し、鋳造業の商売柄親近感を持ったので鋳造鉄斧をさらに探索した。

1 広島県立歴史民俗資料館

 広島県三次市にある歴史民俗資料館を訪ねた。ここには西願寺遺跡からの出土品及び他の遺跡からの鋳造鉄斧などが展示されており、学芸課長の伊藤さんにも色々お話を伺うことが出来た。

 西願寺から出土した鋳造鉄斧は形がほぼ完全に保たれ、刃先は弓状にそり美しい曲線を呈している。刃幅は約9cm、刃の長さは約11cm、厚さは約4cmである。柄を付けるための袋部があり、肉厚約5mm、深さが約6cmの袋状になっている。西願寺遺跡は弥生時代の後期(約1900年前〜1700年前)の墓地群で、弥生時代の鋳造鉄斧がこれだけ形がしっかりと原形を留めているのは珍しいと思われる。伊藤さんの話では、鍛造品は層状に錆びるので錆が脱落し易いのに対して、鋳造品では錆びが網目状に進むので、脱落し難く形は維持されやすいとのことであった。

 資料館には多くの鉄器が展示され、弥生時代以降の鋳造鉄斧を含めて各種鉄斧も保管されている。いずれも錆の程度が弥生時代より少なく原型をとどめているので参考になる。

【広島県立歴史民俗資料館】

【西願寺遺跡から出土した鋳造鉄斧】
(広島県立歴史民俗資 料館所蔵)

【鋳造鉄斧の内部状況】(広島県立歴史民俗資料館所蔵)

【西願寺遺跡から出土した鍛造鉄斧】
(広島県立歴史民俗資料館所蔵)

【弥生時代以降の鉄斧】
左 月見城第五号古墳(古墳時代中期)
中と右 地蔵堂山1号古墳(古墳時代中期、後期)
(広島県立歴史民俗 資料館所蔵)

2 西本6号遺跡

 山陽自動車道西条インターチェンジから国道59号線を西高屋方面に向かい西高屋小学校入り口の信号を左折すると、すぐに「あすかパーク西高屋」に至る。この団地の奥に通称古墳公園という名前で西本6号遺跡が残されている。

 東広島市では旧石器時代から縄文時代、弥生時代にかけての遺跡が発掘されている。この西本6号遺跡からは弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居跡や全国的にも珍しい古墳時代後期の祭祀跡などが発掘された。祭祀跡は建物の復元図から神社の原型ではないかと言われている。

 弥生時代の竪穴住居跡の覆土からは、この時代の鉄器と共に鋳造鉄斧が発掘された。この鉄斧は広島県埋蔵文化財センターにて保管されている。

 鋳造鉄斧と共に発掘された鉄鑿(テツノミ)や鏃(ヤジリ)等はいずれも傷みがひどく原形を残す物は少ない。鋳造鉄斧に関しても破損した一部だったり、錆に覆われていて鋳造鉄斧と判断しにくい状態であった。写真にあるのは鋳造鉄斧の破損した一面ではないかと考えられる。


【西本6号遺跡のある団地入り口】

【西本6号遺跡の立て看板】

【立て看板にある祭祀跡の復元図】

【西本6号遺跡から発掘された鋳造鉄斧】
[広島県教育事業団所蔵]

3 まとめ

 鉄斧は大きく分けると袋状鉄斧と板状鉄斧に分けられる。今回の西願寺遺跡から出土したような閉じた袋部を持つ鉄斧を鋳造鉄斧と呼んでいる。表面の模様や袋部の形、或いは鋳型の貼り合わせ跡(バリなど)等で判断して鋳造鉄斧としているようである。一方、端部を曲げたり合わせたりして造った袋部を持つ鉄斧はおそらく鍛造法で造られたのであろう。板状鉄斧には、鋳造鉄斧の剥離片を利用したものもあるらしい。この時代は鉄が少なく高価であったので、再利用は今以上に進んでいたようである。

 文献(川越哲志著 弥生時代鉄器総覧)によると、広島県で出土した弥生時代の鋳造

鉄斧には以下のものがある。形が残っている京野遺跡と西願寺遺跡からの鋳造鉄斧は歴史価値が高いと思われる。特に西願寺遺跡のものは美しい形状をしているので、今後形の再現などを通じて、この時代の鋳造鉄斧の役割などを想像したいと思う。

No.

遺跡名

場所

時代

大きさcm

形状・状態

探索

西本6号遺跡

東広島市
高谷町杵原

弥生時代
中期前半

4x6x2

破損品

今回

京野遺跡

広島県山県郡
北広島町今田

弥生時代
後期前半

8x11x3

長方形
(わずかに刃部が広がる)

第11回

西願寺遺跡

広島市安佐北区
高陽町矢口

弥生時代
後期後葉

9X11X4

梯形
(刃部が曲線状に広がる)

第9回

今回

▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記 第11回(鋳造鉄斧と京野遺跡)  平成21年1月13日

 弥生時代に海を渡って入ってきた鋳造鉄斧(チュウゾウテップ)は我が国最古の鉄鋳物(鋳鉄)と考えられるので探索した。

1 京野遺跡

 国道261号線を広島から千代田方面に車を進め日本海と太平洋を分ける分水嶺を過ぎると左手に海見山が見えてくる。しばらく行くと千代田流通団地入り口の標識があり、ここを左にはいるとすぐ流通団地に至る。この流通団地の西端の今田地区の北斜面から京野遺跡(広島県山県郡千代田町字京野794−1)が1998年に発掘された。千代田町(現北広島町)は山陰と山陽を結ぶ交通の要衝として古くから栄え、石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代にかけての遺跡が発掘されている。発掘調査報告書(「千代田流通団地造成事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書(?)広島県埋蔵文化財調査センター/編集 1998年発行)によると、京野遺跡は弥生時代後期から古墳時代に至る集落跡であり、弥生時代の竪穴式住居跡からは直径50〜60cmもある柱跡などが発掘され、当時の工作技術がかなりのレベルであったことを想像させる。また、この住居跡より甕、壺、鉢、高杯、砥石、石器などと共に鋳造鉄斧が発掘されたことは、我々鉄製造に関わる者としては心踊る。それは、鋳物と言っても青銅や銅合金の鋳物は古くからあるが、鉄の鋳物の起源は遅れており、ここに発掘された鋳造鉄斧が日本最古級に位置づけられる可能性があるからである。住居跡の覆土からは鉄滓や炉壁も出土しており、弥生時代以降にこの地で鉄が生産された可能性は高い。

【千代田流通団地の様子】

【流通団地内にある公園】

【友鉄工業グラウンド】
【伝統行事「壬生の田植え」の展示】

2 鋳造鉄斧  

 発掘時の調査報告書「千代田流通団地造成事業(?)」によると、弥生時代後期前葉の竪穴住居跡から鋳造鉄斧が発掘された。その出土物が広島県埋蔵文化財調査センターに保管されているので探索した。ここの室長である篠原さんにご面倒をかけ、いろいろ教えて貰うことが出来た。

 鋳造鉄斧の外観は写真のように全面錆に覆われており、1700年の時間の経過を感じさせるものである。鉄は水分があると酸化消耗し易いので、このように形を維持できたことに感動を覚えた。鉄斧の概略は以下の通りである。

  形状:長方形

  寸法:長さ11〜12cm、基部幅約7cm、刃幅8.2cm、最大厚さ2.8cm、袋部肉厚0.5cm

  重さ:416g

 先の発掘調査報告書によると以下の指摘があり特に観察した。

 1)基幅部より刃幅部がわずかに広く、正確には撥型を呈する

 2)刃部は片刃(両刃でない)である

 3)刃の一部が欠落している

 4)基部の横断面は長方形で、左右側面の中央部に鋳型の合わせ面で出来る鋳張りが観察される

 5)柄の近くに一条の凸帯が観察される

 これらの指摘はこの鋳造鉄斧の起源を探る上で重要な項目であり、特によく観察したが4)項については素人目では鋳張りは確認できなかった。また、写真でも明らかなように内面側はなめらかであり、どのような鋳込み方向で、どのような鋳型で鋳造したかをいろいろ想像してみたいと思う。

 この遺跡は発掘後埋め戻され流通団地の下になったので今は跡形もない。発掘した出土品は広島県埋蔵文化財調査センターに保管されているので後刻探索する。現地には遺跡場所の表示はなく、満たされない気持ちで車を進めると、わずか1分程度の所にグラウンドがあり、なんと友鉄工業(株)の文字が見える。将来の工場用地として確保した場所で、今は近くの野球リーグに使って貰っている。休日になると少年の元気あふれる声が飛び交い活気あふれる場所であることを思うと弥生人も喜んでいるかも知れない。千代田は古くからの町で昔からの伝統が神楽や踊りに受け継がれていて、近くの郷土資料館には伝統行事である「壬生の田植え」の様子が展示されており、心を和ませることが出来た。

【お世話になった 広島県教育事業団埋蔵文化財調査室】


【鋳造鉄斧の外観写真】(広島県教育委員会所蔵)

【側面の状況左上部が刃の欠損部】
(広島県教育委員会所蔵)

【側面の状況(裏部)】フラッシュで撮影

【鋳張り発生箇所(鋳張りと確認できなかった)】
(広島県教育委員会所蔵)

【内部(袋部)の様子】(広島県教育委員会所蔵)

【形状図】(調査報告書から引用)

4 まとめ

 我々鉄鋳造に係わる者としては鋳造鉄斧には特に興味を覚える。この鉄斧は国内で生産された物ではないが、日本最古級の鉄鋳物であり、鋳物のルーツと言えるからである。今後この鋳物に関して以下のような観点から探索をしていきたい。

 1)どこから渡来したか。朝鮮半島か、中国か。

 2)どのように鋳造されたか。鋳込みの方法、鋳型や鋳型の合わせ方など。

 3)材質。銑鉄に近いと思われるが脱炭熱処理されているとの報告もあるので、
   当時の技術レベルを知りたい。

 4)道具としてどのように柄を付けて使われたか。

 5)何を工作する道具であったか。木を切るのか、細工するのか、農耕の道具かなど。

 以上を解明するためにはまずは鋳造鉄斧の発掘事例を調査すること、鋳型などの発掘事例(韓国、中国)があれば調査することである。これらのことが分かり、将来我々の手で鋳造鉄斧を再現し、使用し、体験することは大きな初夢となる。 日本で発掘された鋳造鉄斧は約30点余あり、そのうち広島県からは今回の京野遺跡、先の探訪記第9回に記述した西願寺山遺跡、その他2点が発掘されている。弥生時代には鉄は貴重品であり特に鋳造鉄斧という手の込んだ道具は入手困難な時代と想像できる。鋳造鉄斧の発見場所の多くが九州地区なのは朝鮮或いは中国からの調達がしやすいからであろう。ここ千代田には九州或いは大陸と関係する集落が有ったのであろうか。
▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記第10回−可部屋集成館 平成20年12月9日

 友鉄工業の本拠地可部(広島市安佐北区)は歴史的に由緒ある地名である。今回は「可部屋」という屋号で江戸時代に鉄山業を営み、大成功した櫻井家の遺跡を探索した。

1 古家真(こけま)屋敷跡

 中国自動車道の庄原インターから可部屋集成館に向かうため、国道432号線を松江方面に車を進める。途中通るついでに寄ろうと思っていた比和町民会館で近くの鑪(たたら)関係遺跡情報を尋ねると、吾妻山周辺には鉄穴残丘跡や砂鉄選鉱場所など多くの関連する遺跡があるとのことであった。時間を考えて古家真屋敷跡に行ってみた。国道432号線から休暇村吾妻山方面に進と古家真屋敷跡に出る。1000平方メートルを超えるような広さの周囲に城郭と見まがうばかりの立派な石垣が残されていた。この屋敷跡は江戸時代以降明治時代まで森脇地区で鉄穴流しや鑪製鉄を経営した名越家の屋敷だったものである。この地区は鑪製鉄が盛んで、名越家はこの地区の大半の鉄穴及鑪炉を所有し、造った鉄を広島藩に献上していた。1861年に広島城藩主長訓がこの地区を視察していて、立派な石垣は藩主の視察に備えたとも言われている。屋敷跡の一角に、新比和町音頭の歌詞があったので紹介する。

「砂鉄掬うて、たたらで金の
 山を築いた夢の跡
 古家真屋敷に昔を偲び
 泣いているのか草の虫」(平成13年新田得郎)

【古家真屋敷跡看板】 【古家真屋敷跡全貌】
【古家真屋敷跡の石垣の一部】

2 可部屋集成館

 国道432号線を松江方面に進み庄原インターから約45kmで可部屋集成館(島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655)に到着する。この集成館は、屋号を「可部屋」とした櫻井家に伝えられた鑪製鉄資料、古文書、松江藩主お成りの際使用した道具、当時の絵画、工芸品、茶道具などを集成した歴史資料館である。

 櫻井家2代直胤(1592〜1652年)は広島城主福島正則に仕えるが福島家改易の後に可部郷に住居を移し、高野町で野鑪を経営した。3代直重(1619〜1679年)は出雲領上阿井にて、鉄山家を開始(1644年頃)屋号を「可部屋」とし、銘鉄「菊一印割鉄」を創り出した。4代直義は天秤鑪を開始(1691年)し、技術の基礎を造った。5代利吉は鉄砲の砲身(鍛造品)を製作し、「鉄師頭取」と共に「御鉄砲地鉄方」を拝命した。鉄砲造りで有名な国友家へ鉄地金を納入していたことが国友鉄砲の里資料館(長浜市国友町534番地)の記録に残されている。「可部屋」の名前が滋賀県まで届き、京阪との文化的な交流にも役立っている。第12代泰吉は槇原鑪に鋳物部を併設(大正元年)して、鋳物の生産を開始した。

 以上のように「可部屋」は鉄山経営に成功し、松江藩の産業発展に大きく寄与し、文化的遺産も残した。可部に住んだ2代直胤は、可部の地名に大きな思いを寄せそれをよりどころに頑張ったに違いない。

【可部屋集成館の案内板】 【可部屋集成館の正面】

3 櫻井家屋敷と庭園

 可部屋集成館に隣接し、平成9年島根県有形文化財に、また国指定重要文化財(平成15年5月30日)にも指定されている。広さ5600平方メートル、1738年に第5代利吉が建設している。享保3年松江藩主第7代松平地郷(不昧公)は庭を賞賛し「岩浪の庭」と命名した。これ以降も藩主が6回も来訪するなど松江藩への貢献の高さがうかがえる。

【櫻井家屋敷の外観】 【正面入り口】
【名園「岩浪」】
【松平藩との関係】

4 角炉伝承館

 可部屋集成館を出て国道432号線を更に松江方面に進むと、2km程で角炉伝承館に着く。 

 角炉は明治から大正にかけて奥出雲地方で発達し鑪製鉄と同様に砂鉄を木炭で還元する炉である。炉を煉瓦で築くために、操業のたびに壊す必要がなくなり連続操業が可能となった。櫻井家第12代泰吉が槇原鑪炉を角炉に改造し操業したが、ここにある角炉は高さ10mにも及ぶ実物大の模型である。昭和10年に建設し、昭和20年に操業を中止するまで約4000トンの銑鉄を生産した。この伝承館では等身大の人形を原料の投入や出銑作業などに配置しているので、操業の様子を実感して学ぶことが出来る。昭和20年というと鑪製鉄の最後の時期になるが、この規模になると近代的製鉄法である小型高炉の初期とも類似しているように感じる。

【角炉伝承館の入り口】
【角炉伝承館建物】
【出銑作業の様子】
【角炉の製品】

5 まとめ

 今回可部の地名にちなんで可部屋集成館を中心に探索したが、「可部屋」を屋号とする櫻井家が鑪の技術基盤を造り、発展させることにより、事業を大成功させた。当時他に大きな産業が無いこともあり、鑪製鉄事業は社会的にも大きな地位を占め、藩からの期待も大きかったものと思われる。可部の名前を広め、当時の社会に貢献した同業の大先輩の業績に触れ、このような志を未来につなぐ必要性を感じて帰路についた。
▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記第9回−可部周辺の遺跡 平成20年11月10日

 弥生時代に朝鮮半島より伝来した鉄器が、きっかけとなり国内で製鉄が起こりたたら製鉄が生まれたと考えられるので、古代に伝来した鉄器を調べるために会社周辺の遺跡を探索した。

1 青古墳群

 友鉄工業(株)発祥の地である安佐北区亀山地区には、弥生時代から人々の生活があり、多くの住居跡や墳墓・古墳などが発見されている。その一つであり、友鉄工業(株)の模型工場とは目と鼻の先(1〜2Km程度)にある青古墳群を探索した。ここは国道191号線から折れて福王寺へ行く途中にあり、ちょっと見逃しそうな所に立て札がある。古墳は金網の柵で仕切られていて中へは入れない。以前には15基の古墳があったが今では宅地開発され現存するのは4基だけである。ここの発掘調査は広島県立可部高校が実施した。

  1)所在地:広島市安佐北区可部町大字大毛寺字青570ー21

  2)史跡指定:昭和48年5月30日  市史跡

  3)時代:6世紀末から7世紀にかけての古墳

  4)形式:横穴式石室墳でこの場所に4基残存

【青古墳(横穴式石室)】 【青古墳の立て札】

 ここで発掘された埋蔵物が広島市立亀山小学校に保管されているようなので、お願いして見せていただいた。鉄器は長い間に朽ちて昔の状態を想像するのが難しい。形状的に鉄製の剣、鏨(タガネ)、曲がり鎌などではないかと思われる。貴重な発掘物に触れて鉄のぬくもりを感じることができた。学校では、6年生の社会の時間に、地元の遺跡を学習する折に発掘物も使うそうだ。

【遺跡が保管されている亀山小学校】 【保管されている鉄器遺跡】

 ここまで来たついでに福王寺山に登ることにする。途中の展望台に車を置いて、山道を登ると1時間弱でお寺に着く。山の頂上になんと立派なお寺かと驚く。このお寺は金亀山福王寺という由緒あるお寺である。弘仁2年(811年)に弘法大師が建立し、安芸の高野山とも言われているらしい。樹齢数百年、高さ25mの大杉も印象的だ。

【福王寺の本殿と周辺の建物】

 帰りがけに、遺跡の発掘調査をした広島県立可部高校に寄り関連する資料があるか訪ねた。可部高校には史学部があり、その活動が機関誌「はにわ」に記載されていた。青古墳の発掘調査は昭和38年の春休みから夏休みにかけて実施された。1号墳から5号墳の発掘を行い3号墳から特に剣や鉄器が発掘されたようだ。古墳の土を慎重に除き、埋蔵物が出てくると丁寧に掘り出し、また更に掘り進む。1mも掘って出土したものもあり、1500年ちかくも土の中で眠っていた物を掘り当てた感激も載せられていた。史学部では、発掘調査の他に遺跡の構造解析や草刈り、清掃なども行い、歴史と向き合うにはとても良いことだと感じた。

 亀岡小学校や可部高校は身近な歴史素材に触れながら歴史を学んでいて、このような学習が「歴史を語り継ぐ」ということなのだろう。


【広島県立可部高校史学部の機関誌「はにわ」】

2 西願寺山墳墓群(西願寺遺跡群)

 広島市安佐北区の中で、古代からの遺跡の多い所として、福王寺山山麓と並んで二ヶ城山山麓がある。太田川にかけられた安佐大橋の東詰めから、はすが丘団地方面に登ると奥まった小高い丘があり、その一角に西願寺山墳墓群がある。友鉄工業模型工場からは5〜6Kmの距離である。柵で仕切られた中に竪穴式石室があり、側に説明碑が設置され、以下の内容が記載されている。

  1)所在地:広島市安佐北区高陽町大字矢口字はすが丘

  2)史跡指定:昭和49年4月25日広島県史跡に指定

  3)発掘の内容:土こう墓(14基)、箱式石棺(1基)、竪穴式石室(6基)

  4)時代:4世紀初頭から5世紀前半

【史跡指定の標識】
【墳墓の一部(竪穴式石室)】

 この周辺には、ここ以外にも住居跡や石室など多くの遺跡が発掘されている。これら遺跡からの発掘物は、三次市にある広島県歴史民俗博物館(第3回に探索)に収蔵されているので、機会があれば確認したい。発掘物などの情報は、広島県立図書館所蔵の「西願寺遺跡群、広島市高陽町矢口所在遺跡群の調査概報1974年広島県教育委員会」に詳しいので、この内容を紹介する。

 石室の中から道具、農具、武器などの鉄器が発掘された(表1)。 

 その中の鉄斧は鋳造品であり、当時としては大変珍しい。鋳造鉄斧(チュウゾウテップ)はスケッチにあるように柄を付ける部分が空洞になっている。また、側面には鋳型の合わせ目と見られる稜ぶが認められる。

 鉄斧は、「弥生時代の鉄器文化−川越哲志著」によると、弥生時代前期以降大陸からもたらされており、西願寺で発掘されたものは弥生後期〜古墳時代前期と推定している。斧頭としては鍛造製と鋳造製があり、両者とも弥生時代前

期以降国内で数多く発掘され、鋳造製の中には熱処理され表面が黒鉛の少ない可鍛鋳鉄並の物もあるらしい。また、斧は木を切るだけでなく、土を耕したり、穴を掘ったりするのにも使われたそうだ。

表1 出土した鉄器

NO. 名称 寸法cm (重量g) 内容
鑿(ノミ) 26.4X3X1.2 袋部を有する
斧頭(オノガシラ) 11X8X0.6(496.3) 鋳造鉄斧:側面に鋳型の
     合わせ目の稜が見られる
31.2X3.6X0.7 -
刀子 長さ16及び11.5 -
斧頭 ・13.9x5.4x0.7(189)
・11.9x4.9x0.8(159)
・9x3.5x0.8(85.9)
手斧、袋部を有す
鏨(タガネ) 20.5X3.7X1.5(415) 頭部に打撃の痕跡あり
155X3X0.5
12.7x3x0.5
曲刃
施(ヤリカンナ) 18.1X1〜1.5x0.7 -

【鋳造斧のスケッチ】
「西願寺遺跡群」1974年広島県 教育委員会より引用

3 まとめ

 会社近辺にある遺跡の探索により、弥生時代以降古墳時代の間に多くの鉄器が大陸よりもたらされ、武器だけでなく農具や道具として使用されていたことがわかってきた。また、この中に鋳造鉄斧があり、これは大陸からもたらされたものであるが、日本最古級の鉄の鋳造品といえる。古代の人々が、これら鉄器を使用し、その威力に驚き、これを自分たちも造りたいと思ったことだろう。その情熱が、たたら製鉄のその後の展開や鉄鋳造の開始に繋がったことは間違いない。この鋳造鉄斧が、その後国内でどのように展開されたかを探ることが、ルーツ探索のヒントになると考えると歴史ロマンを感じる。

 今回近くの小学校や高校の協力をいただく中で、身近な遺跡を題材にして学校教育に生かしていることを知った。この地区は歴史に対する心配りがあり、良い担い手が育つだろうと期待を感じて、勇気づけられた。
▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記第8回−猫山と周辺遺跡 平成20年10月7日

趣味の山歩きをかねて、たたら製鉄のルーツ探索をしました。

1 猫山登山

 猫山は広島県の北東部に位置し、鳥取県と島根県の県境に近い山です。ご当地東城町はたたら製鉄が栄えた地域として有名で、山のある鳥取県側の日野郡、島根県側の仁多郡横田などもたたら製鉄が栄えた地域です。

 中国自動車道広島北インターチェンジから約80km、庄原インターチェンジを降り、国道183号線を米子方面に進み、峠を越え、ドライブイン道後山(三坂)を過ぎるとスノーリゾート猫山の案内板がある。ここを曲がり、しばらく行くと、登山口入り口の表示がある。ここの無料駐車場に車を入れ、登山口の付近の2体の石仏に安全を祈って登山開始。雑木林の道を約20分登るとリフト中継点にいたり、さらに登ると分岐点にでる。近くの小学校(三坂小学校)の名前の入った標識を右回りして登って行く。標識があまりないので、ありがたい。登山道は一貫して雑木林に囲まれ、多くのキノコや草花が豊かな自然を思わせてくれる。登山口から約1時間30分で頂上に到るが、頂上には3角点があるだけで、他にめぼしい表示もなく見晴らしも悪い。しかし、50m程進むと木立が切れてすばらしい眺望が開ける。

 下に見えるのは小奴可盆地で、緑の小山と黄色く稲が実った田んぼの織りなす景色は格別である。この小奴可方面は江戸から明治、大正まで、たたら製鉄が盛んで、当時はたたら製鉄のため地形まで変わったと言われたが、今は豊かな田園風景である。また、頂上付近には可憐な花が咲き誇っている。尚、中国新聞社発行の登山ガイドブック「ひろしま百山」の猫山の項には、頂上付近の情景として、“眼下には、小奴可盆地が絵のように広がっている。鉄穴残丘の残る田園風景が美しい。板井谷のたたら跡も見える。・・・”とあるが、板井谷たたら跡は確認できなかった。


【小学校名の入った標識】
【猫山山頂付近からの小奴可盆地】
【小奴可盆地の拡大】
緑の部分が鉄穴.残丘跡と思われる
【猫山で見られた可憐な花】

2 板井谷たたら製鉄遺跡

 登山口の前の道路を来た方向と反対方向に2〜3km進むとで板井谷たたら製鉄遺跡に着く。ここは道路に標示もなく、道から100m程外れるので、近くの民家で場所を聞かないと分からない。

 ここには庄原市の天然記念物に指定(平成7年10月30日)された樹高25mに及ぶカツラの木があり、更にたたら製鉄の守り神である金屋子社が鎮座し昔を偲ばせてくれる。カツラはたたら製鉄の神木と言われ、当時はたたら場によく植えられたらしいが、このように立派に育ったカツラと金屋子社が揃ってある所は少ないのではないだろうか。
【板井谷たたらば跡の碑】
後ろに金屋子社が見える
【天然記念物に指定されているカツラの木】

3 内堀鉄穴跡

 板井谷から小奴可方面へ約5kmで小奴可の町、そこから県道448号線を内堀方面に約5kmで内堀集落にいたる。ここから岩本りんご園を目指していくと遺跡に近づくが、この遺跡も道路に標示がないので、中々見つけにくい。今回は岩本りんご園のご主人に教えていただき、何とかたどり着けた。

 この遺跡の正式名称は「内堀の神代垣内落鉄穴跡( かじろがわちおちかんなあと)」と言い、広島県史跡に指定(昭和59年1月23日) されている。所在地は東城町大字内堀字神代垣内で、ここに採鉄洗場の跡が残っている。表示板の説明によると、この上流に、2カ所の鉄穴堤( かんなづつみ) があり、この洗場まで幅1メートルの横手(水路)が長さ600メートルにわたって続き、横手沿いの鉄穴洞( かんなぼら)の真砂土を崩して水とともに流すと、流れるうちに砂分と鉄分とが分離する。それを水路をせき止めて作った大池にいったん流し込み、重い鉄を底にため、軽い土や砂を浮かせて流す。大池がいっぱいになると鉄穴洞の採掘をやめ、大池にたまった砂鉄を初池に水とともに流し、同じ方法で重い鉄を船場にためて、回収する。船場では黒々とした砂鉄がとれ、これを乾燥させて鑪(たたら)に運んだ。鉄穴洗場の跡が完全に保存されている例として、極めて貴重な遺跡である。

【内堀鉄穴.場跡の標識(広島県史跡)】 【手前側が船場、上の方が初池でこのあたりに
砂鉄がたまり、取り出す】
【内堀地区の田園風景】

4 まとめ

 東城町は江戸時代から明治にかけてたたら製鉄が盛んで、鉄の一大生産地であった。「東城町史 備後鉄山編」によると、小奴可地方だけでも、鉄山の権利が4件、鉄穴個数の許可が50箇所以上、永代鑪もあり砂鉄の産地でもあった。これだけの規模で多数の人が恩恵を受けた代わりに、自然破壊も進んだものと思われる。しかし、たたら製鉄の終焉後100年が経過した今では、豊かな自然が回復している。このことは、宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」の主人公アシタカが目指した、“文明と自然の共生”を長期的視野から考えるヒントになると思った。

 この地区の名産小奴可リンゴを味わいながら、さわやかな気分で帰路につくことが出来た。
▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記第7回小丸遺跡(弥生時代の製鉄遺跡)平成20年9月8日

日本最古の製鉄遺跡の可能性がある小丸遺跡を探索した。

1 小丸遺跡の現地

 山陽自動車道の広島インターチェンジから入り60km程走って三原・久井インターチェンジを降り、国道486号線を府中方向に進むと5kmも行かずに御調八幡宮の分かれ道に至る。国道をそのまま進むと100mの所に山陽自動車道の高架橋がある。ここは、三原市八幡町美生と言う所で、昨日三原市教育委員会に電話で聞いていた。しかし、遺跡の具体的な場所が分からないので、近所の人に聞くと、この高架橋の付け根部分の南側(府中方向に向かって右側)で発掘調査(1994年以前)が行われたらしい。高架橋の橋桁の部分には少しのスペースがあり、ここに無名の石碑が建てられていた。発掘現場は、ここから約200m府中方向に進み、左側に石碑がある所を右折して、山陽自動車道の下部トンネルを抜け側道を少し戻った、車の行き止まり付近だと聞いた。何の表示もないので、確認は出来なかったが、地元の人の話では製鉄遺跡では日本最古との説もあり、可成り貴重な遺跡と考えられる。近くに来たので、御調八幡宮に参拝して帰った。


【三原市八幡町美生の山陽自動車道高架橋】
この橋の付け根の右側あたりが発掘現場らしい

橋桁の所には小さなスペースがあり、
無名の石碑があった

【山陽自動車道側道の行き止まり】
ここが発掘現場付近らしい
立ち入り禁止の立て札だけがあった

2 発掘調査報告書から

「山陽自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告11  小丸遺跡」
広島県埋蔵文化財調査センター/編集  1994.03発行

 山陽自動車道建設のため実施された発掘調査で小丸遺跡から弥生時代後期(紀元3世紀頃)の集落とその後の古墳が発見され、その中に製鉄炉が2基あった。いずれも斜面に位置し、発掘調査のA地点でSF2炉(と名付けた)が、そこから約50m離れたB地点にSF1炉があった。調査報告は科学的な時代認定の結果、活動時期はSF1炉が3世紀頃、SF2炉が7世紀頃と推定し以下の特徴が述べられている。

 1)SF1炉

・炉は内径40〜45cm深さ50cmで周囲に排滓溝を有しており、多量の鉄滓も出土した。

・殆ど造成せず、地形をそのまま利用している

・操業に使用したと思われる鉄鉱石を出土

・鉄滓組成から鍜冶炉でなく精錬炉と推定

・屋根などを構成する柱跡が検出されず、野天で操業していた模様

 2)SF2炉

・炉は内径45cm、深さ50cm程度で、SF1炉とほぼ同程度の円筒炉
 (円筒形シャフト炉?)

・鉄滓の出土は少ない

・出土物が少ない

発掘当時の様子は1995年1月13日朝日新聞夕刊で伝えられた。

3 遺跡出土品(広島県教育委員会所蔵)

 広島市西区観音新町にある財団法人広島県教育事業団埋蔵文化財調査室に伺い、当時の発掘物を調べた。篠原室長自ら対応していただき、感謝しています。尚、出土品の各種分析結果が先の報告書に記載されており、これを参考にした。

 今回調査したのは主にSF1炉の出土品で、SF2炉の出土品はきわめて少ないらしい。

1)鉄滓(テツサイ・スラグ)

握り拳程度の固まり状のものがかなりの数保管されていた。これは製鉄過程で発生する鉄滓で、化学分析によると鉄分(合計Fe:FeOとFe2O3が大部分)が15%〜40%程度あり、製鉄時の精錬滓(鍛冶滓ではない)らしい。MnO含有率も10%程度と高くMn分の高い鉱石を使用している。また、鉄滓の中のTiO2含有量が1%以下と低いので、砂鉄を使用した、製鉄法ではないようだ。

鉄滓中にはFeO(ウスタイト)が20〜30%程度含有されるが、このFeOは酸素があれば酸化して、Fe2O3(ヘマタイト)に変化するので、長い間に変化した可能性もあり、細かく分析すれば時代認定の手掛かりが得られるかも知れない。

【鉄滓】

2)炉壁 

 表面の黒い焼けた跡は、製鉄時の炉の構成物と思われる。溶融部の分析では鉄分が10%程度認められ、残りはSiO2から成っている。鉄分含有率からこの炉体が製鉄のための精錬炉の役割をしていたようだ。

【炉壁】表面に黒い反応物が認められた

3)鉱石

 製鉄に使われた鉱石が出土した。Fe2O3を56%含み、MnOを8〜18%含 むことよりMnの高い鉱石である。このような鉱石は世羅町のカナクロ谷遺跡(6世紀末〜7世紀)でも発見されており、同じ山の鉱石の可能性もある。

【鉱石】

4 まとめ

 日本に鉄器が伝来し、武具、農具、建造物などに使われたなら、どうなるだろうか。例えば武具として矢尻に鉄が使われたなら、その威力は使わないものに比べ明らかで、集落を支配し、繁栄するために、或いは集落の存亡をかけて、鉄の生産に向かうことは容易に想像できる。従って、鉄器が伝来した弥生時代から製鉄が始まるまでに多くの時間を要しないように思われる。そうした背景を考えるとここ小丸遺跡の歴史的な意味は大きいのではないか。ここの遺跡は発見当時からすると、現在はトーンが落ちている。出土物ですべてが証明できなくとも、日本最古を主張できる遺跡だと思う。

 いずれにしても、この遺跡は弥生時代から古墳時代にかけた日本の製鉄の黎明期に当たるもので、今まで見てきた、中世以降の製鉄炉と趣を大きく異にしている。即ち炉形状も今までは角形、或いは、舟形が多かったのに丸形であり、鞴を置くスペースも確認されていないので、たたら製鉄とはいえないものである。また、砂鉄を使わず鉱石を原料としている所も違っている。これらの違いは製鉄法の発展過程を物語っている。

 今回は発掘現場に表示もなく、心細い探索から始まったが、調べる内にこの製鉄炉が日本最古のものだと思えてきた。製鉄のルーツ、鉄鋳物のルーツとして、心に銘記しておきたい。

▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記第6回(上石地区製鉄遺跡) 平成20年8月5日

前回訪れた吉川元春館跡から国道433号線を約1km豊平方面に進むと小見谷製鉄遺跡入り口という大きな看板が現れる。ここを入ると、上石地区製鉄遺跡関連地図の前で案内をお願いした小田耕作さん(「小見谷製鉄遺跡群保存会」会長)と落ち合った。

【国道433号線沿いにある看板】

1 上石地区集会所近辺

 上石地区製鉄遺跡関連地図にこの地区の製鉄遺跡の場所や内容が紹介されている。この案内板によると、この上石地区には数多くのたたら製鉄場跡、鉄穴流し跡、炭釜跡などたたら製鉄を行うための原材料の準備から製鉄までの総合的な遺跡が散在している。

【集会所前の案内板】

 案内板の直ぐ後ろにあるのは、鉄穴流しの残土でできた小山(鉄穴残丘)である。鉄穴流しでは大量の土砂が発生することを目の当たりにできる。案内板の横には製鉄遺跡で発掘された大きな鉄塊(銑200kg程度はありそう)やノロ(鉄糞)も展示されている。鉄塊に関しては各種分析が可能なので、将来、組織観察や化学分析により製鉄遺跡の詳細を知る手掛かりになるのではないか。

【出土した銑】

 目を反対側に向けると田園風景が広がり、吉川元春から鍛冶職人要請のあった和浪原が一望できる。昔は、豊かな田園の中に鍛冶職人などが活躍する工房やたたら場などが点在していたと考えると心が和む。小見谷川に沿う林道に入ると、右手上方に鉄穴流しに使われた溝(平六鉄穴溝)をマークで確認できる。この他にも鉄穴池などもあるので草の枯れる冬場にもう一度来たいと思った。

2 コガネ(小鉄)街道

【鉄穴.流し溝跡】

 小見谷川上流方向への林道は、舗装はされていないが草は少なく、適度に車が通っているものと思われる。しばらく行くとノロなどの散乱があり、製鉄遺跡らしくなってくる。上石集会所から約1.2kmで水釜迫製鉄遺跡にでる。この他にも製鉄遺跡はあるのだが、やはり今の時期は草が生い茂っていて、入るのが難しい所もある。水釜迫製鉄遺跡は山の斜面を利用したたたら場で、砂鉄置き場、炉跡など当時の配置を示す表示板がたてられている。この場所は一見すると単なる林だが、専門家の鑑定に基づき、地元の人が立て札を立てた。これらの表示がなければ気がつかずに通り過ぎてしまいそうである。


【水釜迫たたら跡】                【水釜たたら跡の配置表示】

 この林道をさらく行くと(集会所から約2.5km)、この地区最大と言われる大草3号たたら跡にいたる。ここも斜面を利用したたたら場で、先の水釜迫製鉄遺跡と同様立て札により製鉄炉跡、金子屋神詞跡、炭釜跡などの配置が分かる。ここには大量のノロが今でも散乱しているので、雰囲気がある。先ほどの遺跡よりかなり大きな規模で運営されていたようだ。金屋子神詞があるので、この地区の中心的なたたら場かも知れない。鍜冶屋跡もあり、二次製品も製造されていたようである。炭窯跡の空気穴がわずかに残っているが、毎年の落ち葉により埋もれかけており、いずれは消失してしまいそうな様子で、地元の人が発掘調査を希望する理由が分かるような気がする。


【大草3号たたら跡】                【鍜冶屋跡】

 「小見谷製鉄遺跡周辺のたたら製鉄関連遺跡」(田岡巌著)によると小見谷川の周辺にはシアンたたら跡、大草2号たたら跡、弓ヶ谷たたら跡、カミショウブたたら跡などのたたら跡や多くの鉄穴跡、炭釜跡などの製鉄関連遺跡があるようだ。そして、この林道から峠を越えると豊平町で発掘されたたたら製鉄遺跡群などにつながる地形である。小田さんの話では昔の人はこの周辺を「コガネ(小鉄)街道」と言っていたそうだ。砂鉄の運搬、炭の調達、製品の運搬、商売人など多くの人で賑わい、馬なども往来した様子は正に「コガネ街道」と呼ぶに相応しいと言える。小見谷川の林道が昔の豊かさを連想させてくれた。

【炭窯跡】

3 古文書

 この地区でたたら製鉄が行われていた証拠を示すものとして、宝暦13年(1760年)正月に鉄山師清左右衛門と上石地区住民との間で交わされた取り決め書が現存する。この古文書からは、鉄山師がたたら場の建設、資材の調達、物流などを取り仕切っていたことや、この村の百姓、組頭、庄屋などがたたら場開設に同意していたことが分かる。先の吉川元春の古文書(1585年)に出てくる和浪地区といい、このあたりは古くから製鉄関連産業が栄えていたようだ。

4 まとめ

 上石地区には原料の採取、木炭の製造、それに製鉄と二次製品製造というたたら製鉄の全体像がある。また、「コガネ(小鉄)街道」と言われたように、当時(江戸時代中期)の製鉄産業基地であり、たたら製鉄のメッカのような土地であったと想像できる。そして、ここは友鉄工業(株)の安佐工場から水平距離で20kmの距離であり、鋳物業を営む我々にとっても誇りである。当時の状況を正確に解明し、再現し、歴史を保存したい気持ちになる。是非、地元の願望である発掘調査が実現することを期待し、また、鉄塊やノロなどが分析されれば物流面の解明も進むことだろう。

▲トップへ戻る

たたら製鉄ルーツ探索記第5回(吉川元春舘跡) 平成20年7月14日

戦国の武将 吉川元春館(ヤカタ)跡を訪ね、元春とたたら製鉄の関係を探索した。

友鉄工業(株)の兄弟会社友鉄マシン(株)を背に国道261号線を北上すると千代田町(現北広島町)に入る。国道433号線に出て約5Km豊平方面に進むと戦国の庭 歴史館(広島県山県郡北広島町海応寺)に致る。国道沿いに大きな看板があるので分かりやすい。戦国庭 歴史館は吉川元春館跡と展示室より成っている。

【遺跡の入り口】

1 吉川元春・人物

 吉川元春(1530〜1586)は、3本の矢の教えで有名な毛利元就の次男として生まれ、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将である。弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将で吉川と小早川を称して毛利の両川と言われる。信長、秀吉、家康と続く戦国の同時代を堂々と生き抜き、生涯で76度の合戦に臨み、64度の勝利を収め、1度として敗れたことのない武将、と伝えられている。天下を取った家康でさえ三方ヶ原の戦いでは敗戦し、命からがら逃げ帰ったことは有名であり、負けを知らない武将は聞いたことがない。秀吉との戦いは、備中高松城で秀吉の水攻めに耐えていた時、信長が光秀に暗殺されたことより、和議となった。しかし元春は秀吉を討伐すべしとして、和議に異をとなえ、この時を境に引退したらしい。

【見事な石垣】

2 発掘した遺跡の概要、構造

 1994〜1998年に広島県教育委員会が発掘調査を実施、広島県の史跡となる。

 1)経緯

   1550年 上石、海応寺、下石が元春の直轄領となる。

   1583年 館の建設が始まる

   1584年 元春夫妻の居所・倉・庭が完成

   1591年 海応寺の建立が決まる

   1600年 吉川氏の岩国移転に伴い、館、寺とも機能を終える

 2)館跡の概要

  元春が隠居するため1583年より建てた館である。戦国時代を代表する武将に相 応しい、館跡で、大規模な石組みと職人技が駆使された石垣、面積109m四方という広大な土地に配置された建物、庭園、池などが当時の栄華を物語っている。また、隠居所には関係ないと思われる鍜冶炉が発掘されたことも興味が深い。しかし鍜冶炉などは発掘調査後埋め戻されていて、現在は見ることができない。建物は台所と付属屋が復元されているが、他の主要な部分は礎石で位置表示されている程度である。

【唯一復元されている台所と付属屋】

 3)遺跡からの発掘物(特に鉄関係)

  発掘された埋蔵物は、展示室に保管され展示されている。当時は、鉄は未だ高価であり、限られた用途にしか使われていない。即ち木を切る斧や農地を耕す鋤、鍬、石を割るノミ、鉄を曲げるヤットコなどである。また、各種釘などは建築資材として建物の強度を支える貴重な材料だったと思われる。

【建築物に使われたと思われる備品類】

  ここで注目するのは鍜冶炉関係の発掘物で、椀型滓、鞴羽口、ルツボなどである。これは、鉄を溶かしていた可能性があり、「鍜冶」の言葉の中には現在の鍜冶(鍛造)より広い意味があったようだ。例えば鍜冶精錬のようにたたら製鉄で得られた銑を使いやすく精錬するような作業が行われていたかもしれない。また、ルツボというと溶解した金属を扱うので、現在の鋳造のような作業も「鍜冶」と言う言葉に含まれるものと考えられる。

【鉄製の道具や釘など】 【鍜冶炉にあった椀型滓】
【鍜冶炉の羽口】 【鍜冶炉のルツボ破片】

3 古文書が示す物

 吉川元春書状の複製が展示されている。これは家臣の森脇四郎兵衛に宛てた手紙で、1585年(天正13年)に書かれ、現在は岩国徴古館所蔵である。内容は、元春の意向で「和浪の鍛冶師を雇うよう」という、鍛冶師を探す文書である。当然館内の鍜冶炉を操業するための人材であろう。松浪地区はこの館に隣接し、たたら製鉄遺跡が沢山出ている地区である。元春は、鍜冶炉の操業まで指示するような人物で、その幅の広さに感銘する。当時は鉄関係の鋳物は未だ未発達であり、ここで実施していた鍜冶の仕事内容に興味を覚えた。


【元春が、家臣の森脇四郎兵衛に宛てた書状】内容は和浪の鍜冶を雇う依頼状

4 まとめ

 吉川元春は戦国時代を生き抜いた代表的な武将であり、戦い方は天才的、また隠居所の鍛冶職人を手配するなど文化的な面も持った、広島県が誇れる英傑である。この地区の製鉄、石加工、建築、林業など豊かな資源と豊富な職人集団を背景に、無敵を誇る軍団を組織していたようである。

 この遺跡発掘にて鍜冶炉が発見されているが、これには滓やルツボなどもあり、「鍜冶」が現在の鍜冶(=鍛造)より広い意味、即ち精錬鍜冶或いは鋳造などを含んでいた可能性がある。従って鋳物のルーツ探索にはこれら言葉の意味なども調査していく必要がある。

▲トップへ戻る

第4回 吉水園と鉄山絵巻 平成20年6月7日

 国道191号線沿いの友鉄工業安佐工場から約20km北上すると加計(現在は安芸太田町)に出る。加計はその昔、鉄山経営でこの近辺最大手の加計隅屋の本拠地だった。現在加計隅屋24代当主正弘氏は昔から伝わる文化財などを管理している。本日はそれら文化財を訪ねた。

1 吉水園

 吉水園は加計の町並み近くの山の手にあり、車でも行けるが、駐車場が小さいので元JR加計駅近くに車を止め歩いていく。私の足で5分程度の登り坂であった。吉水園は広島県の名勝で、年に2回一般公開される。公開日を逃さないように町の広報など注意していたので、予定通り観覧することができた。この日は「かえる祭り」と重なったこともあり、多く人で賑わっていた。

【吉水亭内部】

吉水園は江戸時代の半ば天明元年(1781年)当時鉄山経営をしていた加計隅屋16代当主が山荘として建設を思い立ち、庭園と入母屋造茅葺の吉水園を翌年完成した。その後、薬師堂とたたらの神様金屋子社の増築、或いは広島の縮景園を手掛けた著名な京都の庭師による改築などを経ている。現在では庭園の池がモリアオガエル(木に登り産卵するという)の生息地として、天然記念物の指定も受け、当日は多くの撮影ファンが池を取り囲んでシャッターチャンスを待っていた。

【製鉄の守り神様 金屋子神社】

吉水園には多くの著名人が訪問しており、その中で、明治39年(1906)に鈴木三重吉が1週間逗留し、ここで名作「山彦」を構想したと言われている。鉄山経営で得た成果をこのような文化財で残し、後世まで影響を与える貢献のあり方に深く敬意を表する。

 【庭園】

2 加計隅屋鉄山絵巻

 加計の市街を抜けて温井ダム方向に車を進めると、「川・森・文化・交流センター」に出る。

【川・森・文化・交流センター】

ここは戦後までたたら製鉄の工場(帝国製鉄)として稼働していて、たたら製鉄には縁の深い場所である。この2階に歴史民俗資料館があり、その壁に鉄山絵巻の複製が展示されている。この絵巻は江戸時代幕末の安政年間に制作された物で、昭和36年に広島県の重要文化財に指定され加計正弘氏が所蔵している。

 【上巻の一部】

複製された絵巻は上下2巻(上巻25cmx6.4m、下巻25cmx8.5m)からなり、カラー版で色も美しく、鉄山経営に関わる状況を写生的に描いており、、言うなれば鉄山経営の虎の巻である。上巻では木の伐採から始まり、炭焼き、運搬からたたら製鉄までを、下巻では鉄の仲買から鍛冶に関する工程が事細かに描写され、使う道具や従事する人員、服装など一目で分かる。たたら製鉄に関わっている人数も40人以上見受けられ、一大産業であったことを理解させてくれる。工程など克明な描写は現在のものづくりの作業標準の参考になるように感じる。この絵巻はたたら製鉄の状況を知る数少ない、貴重な資料であり、たたら製鉄法は消滅したが、絵巻は残ったと言う事実は象徴的である。この絵巻を描いたのは 芸北出身の佐々木古仙斎と言われ、他にも絵馬、絵巻を50点程度残しているらしい。

 【下巻の一部】

 歴史資料館の説明より、江戸後期には加計のたたら製鉄は西中国最大規模であり、できた鉄は広島、下関、大阪方面に販売されていたらしい。鉄の運搬には船が使われ、広島へは川下りであるが、川を上る時には安野より上では船を引く専門の人が加わり、河原から引いて、船を上流に引き上げたらしい。今では想像できない苦労があったものと想われる。

3 まとめ

 今回の探索により、鉄山経営が多くの人に支えられた一大産業であったことが絵巻などを通じて理解できた。たたら製鉄の経営の成果を吉水園や鉄山絵巻のような文化遺産として残し、我々がこれら文化遺産を通じてたたら製鉄の理解を深めるという歴史的な巡り合わせを感じることができた。

▲トップへ戻る

第3回 鉄穴流し遺跡 平成20年3月6日

 たたら製鉄を行う立地条件として、良い砂鉄がとれること、木炭の原料である山林があること、製鉄炉を構築する良い粘土が出ること、砂鉄の純度を上げる(選鉱)ための鉄穴場(カンナバ)が近くにあることが挙げられる。司馬遼太郎著「街道を行く21(朝日文庫)」の中の「芸備の道」に鉄穴場探索のヒントがあったので三次地区を探索することにした。


1 丸山鉄穴遺跡


【高谷山の頂上下ある案内板】

【司馬さんも訪れたJR粟屋駅】

 中国自動車道の三次インターチェンジを降りて2つめの信号を左折し、まっすぐ進んで国道54号線を横切ると高谷山入り口に出る。ここからは三日前にふった雪が残っている所があり、慎重に車を進めていくと頂上直下の駐車場に出た。ここに「粟屋町 名所・旧跡マップ」という案内板があり、「丸山鉄穴跡」「飛石鉄穴跡」などの位置が載っている。車を置いて100m程登ると、霧の海展望台があり、三次市内が一望できる。生憎霧はかかってなかったがすばらしい眺望である。ここから更に200m登ると山頂(490.8m)にいたる。山頂にはNHKを初め多くのテレビ塔が立っているので登山のムードは湧かない。頂上を降りて、先ほどの案内板にあった「飛石鉄穴跡」を探すが見つからず、聞く人もいないのであきらめて「丸山鉄穴跡」に向かう。

【丸山鉄穴跡の看板】

 山を下りて国道54号線を松江方面に約2km北上し、高宮方面を示す看板の所を左折し、川沿いに行くと粟屋駅(JR三江線)がある。この駅は無人駅で「芸備の道」にも載っている。駅の裏手の小高いところが鉄穴跡で「丸山鉄穴跡と池湯」という看板が立っている。看板によると、この鉄穴場は、明治28年頃(明治22年に岩手県釜石で近代的な製鉄所が操業を始めてから6年後)まで操業していたようだ。ここでは赤目砂鉄を生産していたが、この砂鉄は溶解しやすく、各たたら場の製鉄では薬砂鉄(クスリサテツ)として重宝がられていたらしい。看板を参考に鉄穴場の説明をすると、土砂の中に含まれる砂鉄分は鉄含有量として1%を切るような少量のレベルであり、これでは純度が低く製鉄にはとても使えない。この鉄分の純度を上げるのが、鉄穴場の目的である。砂鉄は土砂に比べ密度が大きいので、水の流れにさらすと密度の小さい土砂に比べ早く沈む。この原理で砂鉄の純度を上げるのである。したがって、鉄穴場の構成として、1、水をためる部分、2、土砂と砂鉄をためる部分、3、ためた水を土砂と一緒に流す部分、4、砂鉄を回収する部分、5、土砂の流出を防ぐ部分、から成っている。

 上流側
 ↓ 1、水をためる部分−雨池、田池
 ↓ 2、砂鉄の原料である風化した花崗岩(砂鉄と土砂)をためる部分−留め池
 ↓ 3、花崗岩(砂鉄と土砂)を流し、密度差で分離する部分−井手溝、鉄穴溝、砂走
 ↓ 4、砂鉄を回収する部分−砂床場(ここでは、樋の砂鉄を掬い上げて
     積み上げ品質検査をし、カマスに詰めて荷造りまでしていたらしい)
 ↓ 5、土砂の流出を防ぐ部分

 下流側

【丸山鉄穴跡】

 写真に見えているのは、手前が鉄穴溝と言われる水と土砂を流す溝で、突き当たりの壁の上方に雨池、田池、留め池があり、壁の途中にある穴から勢いよく水と土砂が流れてきたものと思われる。この作業により、鉄分は50〜80%の純度まで選鉱され砂鉄と呼ばれる。コップ一杯の砂鉄を集めるのに200キロ位の土砂を掘り崩さなければならなかったようで大変な作業である。

 採取された砂鉄は、1吹14貫(52.5kg)のカマスに詰められ、2個造りで馬に積まれ、各所のたたら製鉄場へ運搬されたらしい。この頃の言い伝えに「粉鉄七里に炭三里」という言葉がある。炭は嵩張るので運搬がしにくく、たたら製鉄場の近くで製造するが、砂鉄(粉鉄)は少し遠くても運搬ができることを示している。

 鉄穴流しは、冬場の農閑期を中心に行われていたが、地形や自然原理を利用した勇壮な作業であったと思われる。そしてこの作業は「古事記」など伝説の時代にも行われていたようで、歴史ロマンをかき立てる題材でもある。


2 広島県歴史民俗資料館

 三次市内にはみよし風土記の丘公園があり、この中に広島県立歴史民俗資料館があるので立ち寄った。ここには県内で出土した埋蔵文化財が展示され、有史以前から現代までの広島県の歴史がよく分かる。友鉄工業(株)のある安佐北区には6〜7世紀(今から1400年位前)に多くの古墳があり、ここで発掘された出土品も数多く展示されていた。安佐北区に関係する展示物を表に示すが、長さ70cmはある大刀、長さ20cm位の鉄斧など大量の鉄器が発掘されている。この時代には鉄は貴重品であり、主に武具、或いは農器具、大工道具などに使われている。形から判断すると鋳物というよりは鍛造品であろう。これらの鉄は近隣のたたら製鉄場で作られたものと考えられるので、この地区で古代から脈々とものづくりが営まれてきたことを想像すると感慨深いものがある。

表 安佐北区にある古墳から出土した遺跡

遺跡名 出土物 時代 場所
真亀3号古墳
(恵下山遺跡か)
鉄刀、馬具(砂、鎖) 、
鋏具(カゴ)
古墳時代中期、
600年代
安佐北区真亀地区
地蔵堂山遺跡群 鉄刀、鉄鉾、鉄斧、
鋤先、鉄針
古墳時代中期〜後期
600年代
安佐北区落合3丁目
大明地2号古墳 鉄鏃、鉄鎌 古墳時代前期
600年以前
安佐北区口田1丁目
山手3号古墳 古墳時代後期 安佐北区落合3丁目
諸木古墳 古墳時代後期 安佐北区真亀地区

3 広島県立みよし風土記の丘

 戸の丸山製鉄遺跡(6世紀後半)が展示されている。昭和61年(1986)に庄原市濁川町で発掘調査が行われ、その後、製鉄炉の約1m四方を切り取り、ここに移築したものである。製鉄炉の構造は78cm×55cm、深さ25cmの隅丸長方形の穴が掘られ、ここに木炭粉を混ぜた黒色土を埋め、その上に薄く砂をまいて炉底としていた。

【との丸遺跡の製鉄炉(風土記の丘)】

 穴の上半や構内は焼けて赤くなっている。炉底の上に「長方形箱形炉」と呼ばれる土製の炉が築かれていたらしい。また、最後の操業の時に残された炉内残留滓も出土している。先ほど見た大刀などと歴史上近い時代であり、ひょっとするとこの製鉄遺跡でつくられた鉄が加工されて、鉄器と成った可能性もあり、このような検証が将来なされると良いと思う。

 時間があったので、三次市内にある「奥田元宋・少由女美術館」をのぞき、広島三次ワイナリーで赤ワインを仕入れて、豊かな気分で帰路についた。 

▲トップへ戻る

第2回 坤束(コンゾク)製鉄遺跡 平成20年2月11日

【入り口の看板】
 友鉄工業(株)の模型工場がある可部から国道191号線を北上し、飯室の交差点にて国道261号に乗り換え千代田方面に向かうと約4kmにて豊平別れ交差点に出る。ここから豊平町(町村合併により現在は北広島町)方面に車を進める。豊平町にはいると道路の端には一昨日降った雪が残っており、中国山地の一部であることを実感させる。豊平別れから約10kmにて、豊平道の駅「ドングリ村」に至る。ここは村おこしの起点としてお店や宿泊所、運動公園などが集まっている。「ドングリ村」に入り、中を抜けて、600m程で「鉄のふるさと公園」につく。ここに豊平町中世製鉄遺跡の一つである坤束(コンゾク)製鉄遺跡がある。道路脇に写真のような標識があり、分かりやすく表示されている。

 「鉄のふるさと公園」にはベンチと椅子が備えられ、駐車スペースも10台程度あり、遺跡下の斜面で子供達が滑って遊んでいた。この中心部に製鉄遺跡が復元され、保管されている。屋根がかけられ、昔も今日のように一面雪に覆われた寒い中で、鉄作りの作業が行われていたのではと想像すると、親しみが湧いてくる。

 斜面を登り製鉄の行われていたところへ来ると、5x10m程度の範囲に製鉄炉、砂鉄置き場、鞴(ふいご)、湯止め土杭、炉材捨て場、炭窯などが復元されており、当時の製鉄作業の概要を知ることができる。製鉄炉は半分が立体的に復元され、中に木炭が詰められて、左右にふいご(鞴)が配置されている。製鉄炉の断面形状から底は船底型をしており、形は細長いので、古代のたたら製鉄炉から進歩しているものと考えられる。砂鉄置き場には、いぶし銀色の砂鉄が置かれている。多分木炭と砂鉄が交互に製鉄炉にくべられ、熱せられたのであろう。反対側には廃滓溝があり、製鉄の際に発生するノロを除去する溝と思われる。炉壁の一部も置いてあり、生産した鉄を取り出すため粘土で成型した製鉄炉を壊したかけらと思われる。その側に木炭を焼く窯(半地下式)も備えられており、この場所で木炭を造り、貯蔵して、製鉄に使っていたのであろう。このように復元されたたたら場と同時に使われていた材料が置かれているので、当時を忍ぶ臨場感に浸ることができた。

 豊平町には多くの製鉄遺跡(200〜2000カ所とも言われる)があるらしいが、ほとんどは発掘調査もされず地下に眠っている。また、発掘調査されたものも、調査が終わると発掘前の状態を維持するため、埋め戻されて今では跡形も見られないのが、通常であることを考えると、ここは見応えがある。 【坤束製鉄遺跡の全景】

(屋根の下あたりに復元された製鉄炉などがある)
 ここの遺跡は前回訪れた槇ヶ原製鉄遺跡と同様に野たたら場と言われ、傾斜地に作られていることが共通している。当時はこのたたら(鑪)場では鉄の生産が終わると他の場所に移動して、次の生産に移るのが常で、製鉄炉は一回切りしか使われなかったらしい。この点は江戸時代以降発達したたたら製鉄場(永代たたら場)では製鉄炉などの設備を何回も繰り返し使用し、製鉄をしていたのと大きく異なる。

 ここに設置された説明看板から以下のことが分かる。
 1 時代は14〜15世紀に操業された遺跡
 2 このようなたたら場が成立する条件
   ・良質な砂鉄が入手できること
   ・木炭材料(山林)が豊富なこと
   ・炉を形成するために良質な粘土が調達できること
 3 2本の小舟状遺構は製鉄炉の乾燥と湿気防止に役立つ

 ものの本によると製鉄炉は時代の推移と共に形を変え、古代の炉形状は丸型で、だんだん細長くなり、形状も小判型から近代(江戸時代)の角形炉に変化したらしい。坤束製鉄遺跡は近世に移る途中の状態を表していると考えられる。また、製鉄炉の脇に小舟状の溝が両側にあり、この溝は製鉄炉の乾燥や湿気防止の効果があると思われる。

【たたら場の全景】

左の方に砂鉄置き場があり、製鉄炉の断面が見えている。製鉄炉本床遺構の両脇に乾燥と湿気防止用の溝(小舟状遺構)がある
【製鉄炉の状況】

炉の断面状態(図のように木炭と砂鉄が交互に積み重ねられ、脇にある鞴より風が送られ、木炭が加熱して、砂鉄を還元し、溶かしたものと考えられる)

 豊平町(北広島町)には沢山の製鉄遺跡があり、中世の国内有数の製鉄産地であった。この理由としてあげられるのが、良質な砂鉄原料があること、木炭の原料となる豊富な森林があること、そして、釜(炉など)を構成するための良質の粘土があることが条件であり、これらがすべて整っていたためと考えることができる。

 帰りがけに「ドングリ村」内にある、「ドングリ資料館」に寄ってみたが、閉まっているので、体育館の事務室にて、様子を聞いてみた。今日はあいにく担当者がいないので、閉館である。こういうこともあるので、来る前に確認して欲しいとのことであった。この資料館には坤束製鉄遺跡で発掘された炉材や_などの埋蔵物が保管され、また豊平町にある他の製鉄遺跡の発掘時の写真なども展示されているとのこと、是非もう一度来たいと思う。

【ドングリ資料館】

(この中に発掘した埋蔵物が保管されている
 ・常時開いていないので、行くときは前もって連絡しておく必要がある)

 「ドングリ資料館」をみられなかった失望感も「ドングリ村」内の手打ちソバ食堂で解消した。ここはソバ道場にもなっていて、希望者はソバ打ち体験もできるとのことであった。地産地消の一環として、平成13年に高橋さんという著名なソバ打ち職人さんを招請しソバ打ち実習を広めたらしい。なるほど、その職人さんが鍛えた技が受け継がれているせいか、ここのソバは粘りがあり、おいしかった。

▲トップへ戻る

第1回 槇ヶ原製鉄遺跡 平成20年1月17日

 中国山地では昔、製鉄業が盛んで、全国有数の産出量を誇っていた時期もあり、鋳物に携わるものとして、そのルーツに迫り、当時の人々の足跡を追いたいと思い、遺跡探索を思いついた。

 古代製鉄の方法は多く「たたら製鉄」と呼ばれているが、砂鉄と木炭を交互に配置した炉に鞴(ふいご)を介して風を送り、木炭の燃焼熱にて温度を上げ、酸化鉄を還元して、鉄をうる方法である。原理的には、現在の高炉法とよく似ている。

 このような製鉄遺跡は島根、鳥取、岡山、広島県にて多く発見されているが、江戸時代以前のものも、豊平町や千代田町には多いようである。従ってルーツ探しも、当面豊平町と千代田町に焦点を当てて、候補を選択した。

 国道191号線を太田川の上流に向け車を走らせると、友鉄工業(株)という鋳物メーカーがあり、そこを過すぎてしばらく行くと豊平町に通じる県道38号線と出会い、ここをしばらく行くと今吉田というところに出る。目指す槇ヶ原製鉄遺跡の所在地は今吉田であるが、近所の人に聞いても、遺跡発掘があったことは知っていても場所までは解らなかった。そこで、郵便局に入り聞くと、そこの局長さんがよく知っていて、丁寧に教えてくれた。今吉田の郵便局を過ぎて100mほど行くと右に入る道があり、ここを200m程度行くと「槇ヶ原製鉄遺跡」の標識がある。

【道路脇の標識】

小さなステンレスのプレートが道路端に立っているだけで、注意しないと見過ごしてしまいそうである。ここに槇ヶ原製鉄遺跡が眠っている。この標識の上の方雑草の合間に看板が見られるので、枯れ草をかき分け上ると、写真のような看板が設置されていた。

【標識の上の方にある看板】

 この遺跡は道路工事を施工するため1996年発掘調査が行われた。その時に製鉄の工程が詳しく調査され配置や形状、寸法が記録され、また出土物は保管された。現在は遺跡は埋め戻され、当時の姿を見ることはできないず、製鉄遺跡のあった、斜面には、雑草が生い茂るだけである。

【製鉄遺跡があり、調査後覆土された斜面】

 発掘調査の結果この遺跡は、平安時代末期〜鎌倉時代に操業していたもので、中国山地でよく見られるたたら製鉄遺跡の中では古いものに属するらしい。この斜面を見ながら、今とは全然設備や原材料の違う環境の中で、それでも社会生活に必要な鉄を必死になって作っていた姿が忍ばれるような気がする。多分人海戦術で、人々が右往左往しながら、しかし、心を込めて、神に願って製鉄作業にいそしむ姿が思い浮かぶ。発掘の詳細は(財)広島県埋蔵文化財センター発行の「槇ヶ原製鉄遺跡発掘調査報告書」があり、参考までの以下の事項が報告されている。

1 遺跡は主に「砂鉄置き場」「精錬炉」「鞴座」「炭窯」より成る

2 斜面地の20mx30m程度の範囲に配置されている

3 出土物 炉壁、鉄滓、砂鉄、木炭

4 鉄滓の金属部分は4.5%炭素を含み片状黒鉛組織の鼠鋳鉄である

▲トップへ戻る


製品、鋳物、技術に対するお問い合わせはお気軽に:お問合せ